僕の『復活』!
みなさん、おはようございます。
コロナの災厄の中、自分も、みなさんも励まされたら、との思いでブログを書かせていただいていますが、今日は一番大切にしたい日なのです。
今、世界はコロナウイルスによって、死んだようになっていますが、今日、暦の上では、世界はイースター、復活祭を迎えました。
地は苦しみに満ちていますが、天においては、この世界は復活にあずかっています。
だから、今日一日だけでも、地にありながらも天を仰いで生きましょう。
今日はそんな『復活』についてお話しできたら、と思います。
キリスト教公忍ではないです。
僕版の復活論なんです。
そこらへん、どうかおゆるしくださいね。
だけど、一所懸命、復活ってなに?と考えました。
2000年前、イエス・キリストは、十字架の死から復活し、僕たちも時の終わりに復活するとされています。
『復活』って、死んだ者がよみがえるほかに、失われたものがもどってくる意味もありますよね。
この『復活』が、今日の僕たちの救いになるのを祈って書いていきます。
では、僕たちのまわりで、なにが死んでいるでしょうか。
実は、一番死んでいるのは、この世界自体なんです。
現在は、コロナによって、危機に瀕していますよね。
しかし、有史以来、世界は死んで来たのではないでしょうか。
この世界は、『殺すなかれ』、『盗むなかれ』、『犯すなかれ』といった、人間と社会が健康に運営されるに必要な、こんな基礎的なものすら機能していない世界です。
また、自然は、なぜか人間に災厄をもたらします。
今、コロナウイルスで、多くの人が死んでいます。亡くなっています。
知恵ある人はとっくに言っているでしょう。
「なぜ神は、人類にコロナウイルスを送ったか!」
彼らの中には、「こんな世界に神は存在しない。」とう方もいると思います。
たしかに。
しかし、「神はいない。」と言えば、「なぜ神はコロナウイルスを・・・」といった問いはたしかに消えます。
が、「神よ、なぜ?」。と言いたくなるこの世界は、決して消えないのです。
そして、有史以来の宗教や哲学で、これに答えることのできたものはないのです。
それでは僕たちは、神のいない世界で絶望しなければならないのでしょうか?
今日お話する「復活」は、それの解答ではありませんが、それの解決です。
僕たちの、死んでいる世界を救うものなのです。
新約聖書で、復活が最も本質的に書かれているのは、「ヨハネの福音書」と言う書物の、「ラザロの復活」という記事です。
イエスの友人の、マルタ、マリアという姉妹が、死んだ兄・ラザロをよみがえらせてほしい、とイエスに頼み、イエスはそれを成し遂げる、という物語です。
これがなぜ本質的かと言うと、ラザロ物語は、ラザロを失った、マルタ、マリア、イエスの悲しみと、復活に立ち会った彼らの喜びを克明に描いているからなんです。
ただ死者が物理的によみがえってくるのが復活なのではありません。
死者も、生者も、またとりまく世界も、くるしんだ思い出も、すべてが神のいのちにあずかるのが「復活」なのです。
ラザロが死んだ状態。
マルタ、マリア姉妹は、「神さま、なぜ。なぜラザロが。」と問うたでしょう。
イエスも、ラザロの死に涙を流されたと記されています。
かれらも、コロナの遺族の方々と同じくらい、「神よ、なぜ。」という地獄を味わったのです。
僕の母の時は、そうでした。
が、ラザロはよみがえります。
そして、それによって地獄が消滅する。
肉体の蘇生ではなく、共同体内部の「地獄」の消滅こそ、復活の本質と僕はとらえています。
「死んでいたラザロが今、生きている。」という事実と出会った彼らに、新しい関係、新しい世界が生じるのです。
そして古い世界の一部だった地獄は、消滅するのです。
神よ、なぜ。という地獄も、消滅するのです。
つらかった思い出も。
今はただ信じてほしいです。
かたいお話になってしまいました。
ちいさな挿話ですが、僕の好きなドストエフスキーに、「罪と罰」という作品があります。
そのなかで、登場人物が、復活を見る場面があるのです。
老婆を殺したラスコーリニコフに、娼婦となったソーニャが、新約聖書を朗読する場面がありまが、その箇所が、ラザロの復活なんですよ。
聖書では、神の国にはいれない代表例として、殺人者と娼婦がいます。
しかしラスコーリニコフとソーニャの人生は、ラザロの復活によって、よみがえっていくのです。
そして。
コロナに蹂躙されているこの世界も、いつか。
今日は復活祭です。
天では、世界は復活にあずかっています。
バイク。