ユダの願いをこえて
みなさんこんばんは。バイクです。
実は今日は2000年前、キリスト12弟子のひとり、ユダがキリストを裏切った日なんですよ。
世界史の中でも有名なお話ですね。
しかし、なぜユダがイエス・キリストを裏切ったのかは、2000年たった今も、まだ定説はないんです。
ところが僕は、キリストを裏切ったユダを、友と思っています。
ユダと同じ人生を歩んできたと思っているのです。
定説がない中で、ただ一つ僕が信じていること。
それは、ユダが、絶望していた、ということです。
では、ユダはなぜ絶望したか?
イエスの人生の終わり近くは、失意の日々でした。
12使徒ぐらいを残して、多くの人々がイエスを去っていったからです。
後に残ったのは、イエスと12人。あとマグダラのマリアくらい。
この人数で、イエスはユダヤ中をさまよわねばならなかったのです。
この中で、ユダは絶望しました。
自分の理想ゆえに。
ユダは、本当に人間が幸せに暮らせる国をつくりたいと、誰よりも強く思っていたと、僕は勝手に思っています。
だからこそ、その願望が閉ざされた時、ユダは誰よりも強く絶望した。
人間はいろいろな思いで生きています。
が、これら人間の願望は、苦難などによって、時としてくずれさってしまう事があるのですね。
民衆に見捨てられたイエスたちの中で、ユダの願望はくずれさったのです。
それで、師イエスを死に追い込むきっかけをつくってしまいました。
と、こんなことを書くのも、最初に書かせていただいたように、僕はユダみたいだったからです。
僕は、良いコースに乗って、恵まれた人生を送るつもりでした。
が、種々の出来事から、コースをあきらめなければならなかった時、僕は人生を失うようなことをしてしまったのです。
そして、大切な人を裏切りました。
願望だけで生きている人間は、善き願望であっても、それが閉ざされると、もろいです。
・・・・それでは、死に追いやられたイエスはなぜ絶望しなかったか?
それは、彼が神から与えられた使命を生きていたからだと僕は思います。
自分の殻を超えて、世界に何かを与えること。
何かのために生きること。
その手本が僕にとってはイエスなのです。
自分を超えて、人類を見、友を見、神の愛をいつも見ていたイエス。
そのイエスには、状況がどうあろうと、世界がどうあろうと、苦難を超えてやるべきことがありました。
こんなイエスを模範としている限り、僕も絶望から離れていられると信じています。
ひとでなしだった僕ですが、今は、すこし自分をこえて、友とか、社会とか、愛とかを、ちょっとだけ見れるようになりました。
なにかのために生きていたいです。
今、コロナという苦難が、人間を襲っています。
多くの人から、こうあってほしいという願望を奪っています。
しかし、それよりもすてきなものが人生にはあると僕は信じたいです。
どうか苦難と混乱の中、すべての願望が閉ざされても、負けないでくださいね。
バイク。