形のないものをあらわす形。
こんにちは。
今日、ほんとに久しぶりにキリスト教のことを書かせていただきます。
今朝、土曜日と言うのにミサに行ってきました。
『十字架称賛の祭日』(東方正教会では、聖十字架挙栄祭と、十二大祭の一つに入っています。)です。
時は、ローマ時代。
十字架を模した軍旗で戦いに勝利し、キリスト教を公認した、コンスタンティヌス皇帝治世のこと。
帝の母君の皇太后ヘレナが、エルサレム巡礼中に、300年前にキリストの処刑に使われた十字架を発見、パレスチナのニュースでもおなじみの、聖墳墓教会をA.D.335年9月13日にささげた、という故事を記念する典礼です。
4世紀以来、ギリシャ正教会、ロシア正教会、ローマ・カトリック教会では、1500年以上にわたって、この祭日を守っているわけですね。
ミサの後、十字架像の前で、ひとりひとり、ひざまずいて祈りました。
そのあと、簡単なお茶会があったのですが、思い切って今日のことを神父さまにぶつけてみたのです。
「神父さま。
神さま、仏さまみたいな、本来かたちのない、人間のスケールではかれないものを、人間の頭でつくった像に閉じ込めるのは、どうなんでしょうか。
これは、真の『神』、というものではなくて、『人間の作った神』ではないでしょうか。
そこには、人間を愛してやまない神ではなく、こうなってほしいという人間の願望、欲、があります。
僕は、ほんとうに人間を救ってくれる、ほんとうの神さまを拝みたいのです。」
と、質問してみました。
旧約聖書の『出エジプト記』に「神の像をつくるな」というモーセを通して与えられた律法はあるのですが、カトリック教会の理解は次のようです。
ま。それは偽の神のことで、ほんものの神さまの像ならOK。
というのが教会の建前ですね。
ローマ・カトリックでは、このような聖像・聖画。ロシア正教・ギリシャ正教ではイコンという聖像画を使います。
しかし、イエス像であっても、2000年前のユダヤで、苦しむ人とともに苦しみ、悲しむものとともに悲しんだ、人類の神・イエスキリストを表現しきれないのでは?
と言う思いがあったのですね。
僕はカトリック教会を愛していますが、この点に関しては、プロテスタントの兄弟のように、祈りを通して、目に見えない神を味わい、こころにとめ、信仰していくのがスジかと思っているのです。
しかし。
神父さまはやはりなかなかでした(笑)。
バイクさん。聖像、聖画は、ガラスのようなものです。
ガラスの背後の、神さまに値打ちがあるのです。
ガラスに価値があるのではなく、ガラスを通してバイクさんに伝わってくる、バイクさんに入ってくる、神さま自体、に値打ちがあります。
これは、仏さまをおがむ仏教のひとも同じかと思います。
ガラスにひとを救う力はありません。
また、ガラスを礼拝するのは、わたしもおかしいと思います。
大切なのは、像という「ガラス」のむこうに、バイクさんが何を見ているかと言うことです。
「神」をみているのか、あるいは「自分の願望にすぎないもの」をみているのか。
それが問われるでしょう。
と、おっしゃられました。
なんにしても今日、大変勉強になりました。
なかなか、大きな問題になってしまったので、僕のなかで決着は急がないことにしました。
さてさて、これは仏教徒のかたもいかがでしょうか。
仏さま。お地蔵さま。観音さま。の像を拝ませていただく時。
なにも考えずにあたまを下げているか、あるいはガラスを礼拝している人はいませんか(笑)。
(注)これは、バイク自身の意見を述べたものです。
ほんとに、仏像そのものを大切に信心している仏教徒のかたに失礼になったらごめんなさい。
そして、プロテスタントの兄弟姉妹のみなさんも、おてやわらかにお願いします。
うーん、読み返してみたら、結構みんなの信仰がかかっている大きな問題ですね。
ローマ。聖ピエトロ大聖堂。ミケランジェロ作の『ピエタ』です。
実際の聖母マリアに一番よくにていると言われます。