「田んぼ」と「創造」の世界
おはようございます!
今日は土曜日ですね。
仕事休み―!
みなさんのブログもゆっくり読み、記事も書けます。
そして、今日は神さまもお休みです。
あまり日本では知られていませんが、キリスト教の兄弟宗教のユダヤ教では、6日間かけて世界をつくられた神さまが休まれた7日目、というのが今日土曜日なんですよ。
(キリスト教では、キリストが復活された日曜日を主日とします。)
神さまは今日、ゆっくりお風呂に入って、アサヒスーパードライをプシッ!とやられたわけですね(笑)。
と、悪い冗談ですが、こんなくらい、日常の僕にとって、神さまはやさしく、親しみやすいじょうだ方なんですよ。
が、これは僕が大人になって信仰をもってからのこと。
僕は、神さまのいない世界も、神が存在する世界も知っています。
ちょっと僕の大好きなイシドロ・リバス神父さまの引用もさせてもらいながら。
「日本社会の場合には、人間の最終的価値基準は、人間自身や神ではなく、社会なのです。」
そうですね。
日本社会というのは、農業のたとえで言うと、人間がみんなで協力し合って、「田んぼ」を作っているんですね。
目的は、みんなでおいしいお米をつくること。
そのためには。
共同作業だから、「和」をみださない。
仲間や近所、とにかく人間関係を大切にする。
また、お米作りに役立つものならば、偏見なく、寛容になんでも取り入れる。
仏教しかり、西洋哲学しかり。
きまりはみんなで話し合って。
みんなで決めたことなら、少々間違っていても、それはそれ。あれはあれ。
美しい自然のなかで、いいお米つくりましょうよ。
ということなんじゃないかと思うんです。
ここには、ユダヤ・キリスト・イスラームの、絶対的な善悪の基準をふりかざす唯一の神はいませんね。
ひとつの立派な社会です。
これに対して、神さまの世界をあらわす、最良のキーワードは、「創造」、と言うことだと理解しています。
僕が、神さまについて、「これだ」、というイメージを持ったのは、「創造」、を通してでした。
「聖書は、最初の『創世記』から、最後の『黙示録』まで一貫して、神のつくられたものに、がらくたはない、と主張しています。
まず、神は大自然のすべて、植物、動物、宇宙全体を、大切な作品のようにつくられました。
そして、大自然のすべてができた時、いよいよ神は人間をつくられたのです。
ここで、ほかのものをつくったときと違って、人間の創造には、バラ―、という特別な動詞が使われていますが、ひとつひとつが手作りで、こころをこめて、細かく芸術作品などをつくる時の言葉です。
また、神は、人間に御自分の息を吹きかけた、とあります。
神は人間に、他の動物のように単に生きるだけではなく、御自分に似た者として、大切に生きてほしくて、息をこめて人間をつくられました。
そして、すべてをつくられた神は、御自分のすべてのわざを確認され、世界を『良しとされた』と聖書には書かれています。」
これらに優劣はつけません。
どこからきて、どこへ行のかということは明らかにされてはいませんが、「自然」に、「田んぼ」があって、みんなで共同し、しあわせにお米を作っていく。
そういう共同のいとなみが、四季のめぐりのなかでいつまでも続いていく。
かたや、唯一絶対の神さまが、こころをこめて「創造」されたすばらしい世界。
ひとりひとりの人間が、個人として価値を持ち、神さまのいのちを生きて行く。
世界ははじまりと終わりを持ち、直線的な時間を、完成に向かって進んでいく。
僕はそのどちらも生きた勘定です。
どちらもいい世界と思います。
が、クリスチャン・バイクとしては、みなんさんも、たまには「創造の世界」もちょっとだけ覗いてくださればうれしいです。
今日もよき日でありますように。