画びょうのような聖書のよみかた
こんばんは。バイクです!
更新遅れてごめんなさい。
今まで、宗教学をやっている友人と話していました。
宗教学というのは、ざっくり言うと、すべての宗教を平等にあつかって、客観的に研究する学問です。
いろいろ話題が出ましたが、一番もりあがったのは、「もし、かりにキリスト教を信じる人が1人もいなくなって、聖書に書いてあることが事実と信じる人が1人もいなくなって、聖書が、『岩波文庫』、『新潮文庫』の一冊にでもなって読まれるようになったら、聖書はどうなるだろう?」というお話。
なんと驚くことに、(クリスチャンはなお驚きますが)、さらに真価を発揮するだろう、みたいな話になりました。
クリスチャンは、聖書の出来事は事実だと信じています。
僕もその立場をとっています。
しかし、まったく事実でなくとも、読む人の人生を変えたり、感動を与えたりするとも、僕はおもっているのです。
ノアの洪水の文明批判。バベルの塔の科学技術への警鐘。
ヨブ記の、人間の苦悩への考察。
ソロモンの、人生すべてへの知恵。
などなど、キリスト抜きでさえ、深い内容を持っているのです。
思い切っていってしまうと、仮に、聖書が全く事実でなくても、ぜんぶ作り話でも、ひとは救われます。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、太宰治の『人間失格』が読む人の人生を変えてしまうように。
「えーっ、福音は?永遠の命は?」と言われそうですが、そう言った、信仰の読み方を超えて、教会をこえて、聖書は広いと思うのです。
「本来の読み方」、「救い」、ということに縛られると、聖書は狭くなってしまうと思うのです。
本来いろんな読み方に耐える、ひろーい書物と思っています。
ちょうど画びょうを逆さにたてたような形ですね。
信仰の針の、教会の読み方を、大きく広がった、普通のひとの読み方が支えている。
そんな形を、バイクだけの個人的な意見として、あくまで個人的な意見として持っています。
教会も、信仰書のよみかただけを伝道するのではなくて、多くのひとの多様な読み方をはぐくむ方向性もあってもいいのではないか、と思ったりするのです。
オリンピックの競技と一緒ですね。
競技人口が広いほど、専門の選手もレベルがあがり、競技全体も健康になる。
聖書を、信仰の枠をはなれて自由な心で読む人が増えたら、地球も楽しいな。
今日は夜更かしのせいか、牧師先生にまず怒られるようなことを考えてしまったバイクでした。
信仰の同胞、クリスチャンのみなさんも怒らないでね。