キリスト時々アルコール

コロナの中、自分も社会もがんばれるようにつづっています。

キリストの十字架を説明するために。

 おはようございます。

 昨日予告させていただいた十字架について書こうと思いましたが、なかなか難しくて。

 それで、今日は僕の体験をちょっと。

 

 20年前のお話です。

 僕は、自分のあやまちのゆえに、アルコール依存症になりました。

 すべては僕のおろかさが招いたことだったのですが、僕はそれを認めていませんでした。

 お酒が切れると、手のふるえ、大量の寝汗など、強い禁断症状が襲ってきて、それをしずめるためにまた飲む、といった日々が続いていました。

 

 そんな中、自助グループの友達が、教会に誘ってくれました。

 信仰は持っていませんでした。

 ただ友達に誘われたということと、主任司祭の神父さまがいい人だったので、通っていただけで、自分には無縁な場所だと思って居ました。

 

 アルコールは止んでいませんでした。

 教会に行くとき以外は飲んでいたのです。

 いや、誰もいないとき、ふらりと教会を訪れて聖堂で祈る時も、僕は酔っていたのです。

 

 ちょうど、復活祭前の春の夜でした。

 僕は相変わらず飲んでいました。

 台所で飲んでいました。

 

 すると、母が入ってきて、

 「飲むか、死ぬか、どっちかにせい。」

 と言いました。

 僕は、隣の洗面所から女性用のカミソリを持ち出して、

 「ああ、死んでやる。」

 と言いました。

 

 次の瞬間、ものすごい力で母に掴まれました。

 

 「放せ。死ぬんや。」

 とふたり倒れました。

 

 すると、

 「いたーいい。」

 と母の叫び声が響きました。

 母の手の甲が、カミソリでざっくり開いていました。

 

 救急車を呼びました。

 「洗面所で転んだんです。洗面所で転んだんです。」

 と母が救急隊員に叫んでいました。

 救急車が行った後、僕はカミソリを拾いました。

 畳のうえの血だまりも見ました。

 

 気がつくと、教会への道を歩いて今した。

 神父さまは在宅のようでした。

 司祭館をたたくと、「なにか?」と神父さまが出てきました。

 「人殺しと同じくらいのことをしました。」

 というと、あたりを見回して、「中に入りなさい。」と言われました。

 

 司祭館の中で、僕はあらいざらい白状しました。人間としてもうだめなことも告白しました。

 神父さまは、だまって聞いておられました。

 しかし僕のからだは硬くなっていました。

 やさしい神父さまはゆるしてくれるだろう。

 しかし、もし、全能の神というものがいるならば、神さまはぜったい僕をゆるしてくれないだろうと僕は思ったのです。

 

 

 神父さまが口を開きました。

 僕は戦慄しました。

 自分は神の前で滅びる存在だと。

 

 

 

 すると

 

 

 神父さまは、

 「神はバイクさんを、愛しておられます。」

 と言われました。

 

 

 

 「主の十字架が、バイクさんを救ってくださいます。」。

 

 

 

 

 それで十分でした。

 僕は泣き出しました。

 と同時に、今、自分が世界で一番罪深い者だということを知りました。

 そして、人間の知性を超えた神が、真に存在することも知りました。

 神父は僕を抱きしめて言われました。

 「神はあなたを愛しておられます。」

 

 神に対する考え方が、根本的に変わってしまいました。

 すべてのものが滅びても、このかたは永久に立つ。

 宇宙が終わっても、このかたは存在する。

 そして、人間は、それがどんな人間であっても、人間は、神に無条件に愛されているのだ。

 たとえすべての人類がその人を見捨てたとしても、神はその人を見捨てないだろう。

 今、永遠ということがわかる。

 神は、愛なのだ。

 

 

 そとへ出ると、すべてが新しくなっていました。

 自分も、世界も、新しく創りかえられていました。

 道行く人が、かぎりなく大切な存在に見えて、それまで他人のために祈ったことなどなかったのですが、すれ違う人、すれ違う人の幸せを願いながら教会から帰りました。

 

 これまでの人生で、出会ったすべての人に、つぐなうための新しい人生が僕に。

 

 その日から、僕は信仰を持ちました。