楽になったカエル。
こんばんは、バイクです。
今週は、いろいろなことがありました。
うー。しばらくブログネタにこまらん。
まずは、僕がカエルになったおはなし。
パニックになって、再飲酒しちゃった事件、僕にとってはかなりショックでした。
それまで持っていた自信や自尊心、誇りといったものは跡形もなくくずれてしまったのです。
それはそう、新しい職場で、同僚全員がこわくなり、パニックをおこして、あろうことかアルコールに逃避した、というはずかしい出来事だから。
しかし、いつもの友人との対話で、人間関係や、パニックが原因ではないと、いうことがわかってきました。
どれも、自分の本当の姿を見ないための言い訳だと。
「今回の事件の背後には、バイクさんの『人間いたいする恐れ』、『社会に対する恐れ』がある。」と友人はいいました。
自尊心が消えて、素直になっていた僕はうなずきました。
が、次がとどめ。
「バイクさんは、『井の中の蛙』だったんだよ。
12ステップやキリスト教の事など、一番知ってるみたいな顔してて。」
普段いわれたら反発していたでしょうが、反抗心などとっくになくなっていたので、これもまた、すなおに入ってきたのです。
入ってきた。
すなおに入ってきました。
すると、なぜかからだが楽になりました。
キリスト教のことならだれよりも知ってる。
AAのことならだれよりも知ってる。
これが僕のおおきなプライドでした。
生きる支えであり、これがなくなったら生きていけないと思っていました。
これがくずれた。
ら、意に反して、楽になりました。
優秀だったバイクは、カエルになったのです。
「これだけは。」と思っていたものがなくなると、楽になると知りました。
自己卑下でなく、自分は井の中の蛙ということを自然に受け入れると、かわるものです。
大きく見せる必要なんてない。
カエルのように小さい自分でいいんだ。だってそれが本来の僕の姿だったのですね。
余分なものがなくなったあと、いろいろなものが、ぼくの中に入ってくるようです。
バイク。
シッダールタの生涯
こんばんは!バイクです。今日は思うところあって、色なしです。
たいへんな小説を読んでしまいました。
端折って言うと、主人公シッダールタはラストで、人間をこえた存在になります。
あらすじは次のようです。
古代インドの祭司の子、シッダールタは、幼いころから高い霊的ステージにあったが、祭司の奥義の欠陥を知り、より完全な存在になるために苦行僧のなかに身を投ずる。
その成果、シッダールタは理論的にすべてを知る。
世界でもっとも完全な人・ゴータマ(釈迦)に迫るほどのステージに到達する。
しかしシッダールタは、釈迦の弟子になることさえ拒否して、僧から出、世に入っていく。
俗人シッダールタには、愛人との交わりも、金儲けも、賭博も、みな修業だったが、やがて真理も高いステージも忘れ、完全な俗人になってしまう。それもほかの俗人と違って、愛のない俗人に。
また、老いもやってきて、シッダールタも絶世の美女だった愛人も衰える。
あわれな存在になったシッダールタは、すべてを棄てて、川のいち渡し守になり、人を渡すだけの生涯にはいる。
こんどは、祭司や、苦行僧や、愛人、商人が先達ではなく、同じ渡し守の相棒と、川の声だけが師となった。
川の神秘的なちからによって一度は聖者となりかけるが、愛人に産ませた子につまづく過程で、愛を持った愚者に、シッダールタはなってしまう。
そのまま、愚者のまま更に年老い、人生も終わりに近づいたころ、かつての親友の修行僧が、シッダールタ額にふれると、彼は自己のうちに全世界をやどす存在になっていた。
というお話しでしたが、いや、なかなか身に沁みました。
一週間前のぼくだったら、「冗談じゃない。」と、シッダールタの人生を否定(半分怯えながら)していました。
が、ある事件があって、僕は全国区でも通用する(と思っていた)AAマン、どこの国に行っても大丈夫な(と思っていた)カトリック教徒、という思い上がりが砕かれてしまったのです。
僕はシッダールタのように「没落」しました。
祭司、苦行僧の中で得た知恵が、世間で全く通用せず、どんどんあわれで愚かな境遇になっていくシッダールタに重なっちゃいました。
そしてシッダールタの人生は最後で大逆転がありましたが、僕は愚かなままです。
しかし、大逆転はなくてもいい。
これまでずいぶんと愚かなことや、思いあがったことばっかりやってきたから、愚かなままで(一生?)いてもいいかな、と。
今の僕の状況にぴったりの、もしかすると神さまがあたえてくれたような一冊でした。
夜の中へ
こんばんは。バイクです。
今日なんと、作業所で時間中眠ってしまいました。
原因は、昨日徹夜で読書したからです。
あかんねー。
で、今日はしっかり健全な時間に。
今日もくだんの書店にいってきましたよ。
夕ご飯のあと、散歩代わりによくいきます。
ほとんど立ち読みー。
よく読むのは、かわったことに、文庫本の『あとがき』、『解説』でっす!
これ、結構楽しいんです。
大体の内容がつかめるし、その作品が著者の中でどんな位置を占めているか、傑作か失敗作か、解説者の性格が善いか悪いか(笑)。
しかし、昨日に引き続いて、購入しました。
仏陀と同名の主人公のこころの深化の物語で、最終的には完全な「自己放棄」にいたる、高い境地が描かれているそうです。
自己放棄。
ちょっと怖いようですが、惹かれました。
また、なんか惹かれて、訳違いで二冊買ってしまいました。
なんでこんなに魅かれたのでしょう。
それは、現在の僕が、自信、自尊心が低下して、自分というものを持て余しているからかもしれません。
自暴自棄になって、「自分よ、消滅してしまえ。」、「もう、人間やーめた。」と言うこともできますが、どうせ自己を投げ出すなら、一筋でも希望のあるほうを選びたいものです。
自信、プライド、自尊心。
社会的に生きるために必要なものを全て放棄したとき、人間はどうなるか?
半分怖いもの見たさで、見てみたいですね。
人間として駄目になるのか。人間をこえた存在になるのか。
げんきになるため武士道を学ぼう!
こんばんは、バイクです!
今日はちょっと忙しかったです。
作業所のあと、訪問看護、ホームヘルプ。
で、夕食のあと、県内最大の本屋に行って、買ってきました。
元気になるため、ブシドーを学ぼう!
読んではなくし、読んでは痛み、今日買ったので4代目。
元気になろっと。
しかし、これを書いた、森鴎外は、元気な人生だったかなあ?
生きているときはまさに超人。
軍医総監。陸軍中将。帝室博物館総長。文学・医学博士。そして明治最大の文豪。
医師としても、軍人としても、官僚としても、そして作家としても、それぞれの道で頂点に上り詰めた巨人です。
が、亡くなる時は、「墓には、余は岩見人、森林太郎として死せり。とだけ刻め。」
と言い、「馬鹿馬鹿しい。」と言って死んだそうです。
肩書・地位など、鴎外は重荷だったのか?それともいらなかったのか?また無意味と感じていたのか?
それとも、「はだかの人間」としての強靭な生き方だったのか。
さきほど、くだんの友人と話しましたが、
鴎外は、最大の絶望者か、最強の強い生き方をした人間か、どちらかだろうね、と意見しあいました。
僕としては、後者を信じたいです。
現時点、ちょっと絶望していますが、信じたいものだと思っています。
みなさんは、どちらですか?
バイク拝。
苦しんだあとの最後の祈り
こんばんは、バイクです!
昨日、アルコールでの危機を、友に助けられて、一夜明けました。
まだ疲れが少し残っているようで、教会のミサが終わったあと、ずっと今日は横になっていました。
とろとろと寝ても寝ても、まだ眠かったです。
が、ついさっき目覚めると、疲れは癒えていました。
さっそくちょっとたまっていた洗いものをかたづけ、明日収集の燃えないゴミをしばる。
すっきり。
こよい、あとはお風呂はいって洗濯するだけですよ。
そんななかで、祈りということを考えました。
9月以来のバタバタで、いつしか狭くなっていたぼくのこころは、「恐れ」を生み出し、それから逃れようとして、僕は飲酒ににげたのだ。
もっと広い、解放されたこころと、他者への祈りが必要だ。
ちっぽけな自分をこえて・・・・・。
ここで、「神」という言葉を使ってしまうと、日本ではアレルギーを起こす人がいるので、ノンクリスチャンにも通ずる表現で言うと、
人間の知性を超えた、宇宙の製造者。
地上の全てのものを慈しんでいる、存在そのもの。
遠い昔、人間に愛するということを教えた方。
と言いましょうか。
そう言った唯一絶対の存在が、ひとりひとりの人間、生き物を慈しんでいる、と僕は信じているのです。
主よ、私の自由をあなたにささげます。
わたしの記憶、知恵、意志をみな受け入れてください。
わたしのものは、すべてあなたからのものです。
いま、すべてをあなたに捧げ、みむねにゆだねます。
わたしに、あなたの愛と恵みをあたえてください。
わたしはそれだけで満たされます。
それ以上何も望みません。
天のきさき、おとめマリア。
わたしは、あなたのとうといご保護にすべてを委ね、
生涯のすべての日々、
とくに臨終の時に、わたしの身も心も、
慈しみ深い御手にゆだねます。
わたしは、すべての希望と喜び、困難と悲しみ、
一生と最期をあなたにささげます。
御取次によって、わたしのすべての行いが、
あなたと御子のみむねにかなうよう、導いてください。
こよい、すべてがよくありますように。
すべての人が、よくありますように。
もしわたしの敵がいても、かれらもまた、しあわせでありますように。
かれらの家族も、こよいしあわせでありますように。
スリップ・友・音楽
こんばんは、バイクです!
更新おそくなってすいません。
今まで、友達の家で話し込んでいました。
うーん、飲んじゃったのです。
僕はアルコール依存症だから、お酒は一滴でも禁物ですね。
だが、昨日かな。
職場の友に、これまた職場のなやみを、(電話で)話し切ったあと、気が抜けました。
一挙に意気地がなくなってしまって、手元に用意してたウイスキーを、口につけました。
・・・・・・。
一晩かけて、一本からにしました。
明け方、とろとろと寝て、起きると、すごい頭痛と、パンパンの肩。
このままでは、だめになるな。
で、思い切って昨日のともに打ち明けたのです。
そうしたら、
「体が治ったら、うちにおいでよ。」
と言ってくれました。
3時ごろ、肩などが楽になったので、大雨警報の中、友の家へ。
友は、いきなり本筋には入らずに、好きなスピーカーを紹介。しばらく洋楽を二人で聞きました。
「100回失敗しても、101回立ち直ればいいよ。」
5曲目終わったころ、彼は言いました。
それから、話は深くなって。
・・・・・・。
人間関係が問題ではないと。
その背後にある、人間への「恐れ」。社会への「恐れ」。
これが、僕を追いこんだのだと。
そのあと、夕食を食べて、二人でまた音楽を聴きまくりました。
クラシックから、ロックまで聞きつづけましたが、最後に友がかけた奥田民生に力づけられました。
この、自分の中にある「恐れ」と、どう向き合っていくか。
明日からの課題ですが、今日一番のことばが、心強いです。
「100回失敗しても、101回立ち直ればいいさ。」
典型的日本人!?
今日、ふと死んだじいちゃんのことを思い出しました。
すごい物事に寛容な人で、「みんな同じじゃよ。」と言うのが生前の口ぐせでした。
が、そんな祖父もきれることがあって、その時は、「あいつは変わっとる」というのも口ぐせでした。
怒るときは、「常識だろうが!」と怒っていました。
うーん、豊かな包容力にあふれていた爺ちゃんで、尊敬は変わりませんが、これって、典型的な日本人?かな?
すっごい寛容なんです。
あらゆるものを温かく包む日本の姿ですね。
しかし、問題は、また連発していた「あいつは変わっとる。」と言うセリフです。
どうしても、自分のうちに取り込めない事物にたいしたとき、意外と不寛容!
ここに、日本の現時点の限界も出ているように、今の僕は思います。
受け入れられる事物に関してはすごい寛容なんだけど。
ひとたび受容できないと、排他的になってしまう。
そしてその根拠は、「みなが信じていることと違う。」
僕の愛している日本、すべてのものに寛容な日本。
が、最後の最後で真の寛容には達していないのかもしれません。
そして、現在では、日本の風土に異質な人たちも、おおくなった。
ユダヤ・キリスト・イスラームをはじめとする一神教がいい例ですね。
これらにも、日本が寛容になれるかどうかが、日本が真の寛容な社会になれるかという試金石だと思うのです。
僕は日本が好きですから、そういう社会になって欲しいですね。
バイク。
うー、なんか爺ちゃんの思い出から、日本の課題まで、飛んでしまいました。