キリスト時々アルコール

コロナの中、自分も社会もがんばれるようにつづっています。

ゆるしあいへの言葉。

 じゃん!

 友人のやっているマレーシア料理のお店に行ってきました。

 今日の夕ご飯は、ペナン風焼ききしめんと、タピオカいりテータレック(マレーシア風ミルクティー)です。

 ちなみに店主によると、タピオカはマレーシア産だそうです。
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 料理もさることながら、今日の用は、聖書の勉強でした。

 店長さんはプロテスタント(メソディスト)のクリスチャン。

 いつもラストオーダーすむ頃に行って、店がひけたあと話し込むのですが、今日は10時まで待てませんでした。

 

 おおきな問題が解決したのです!

 

 「だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。

 誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 (ヨハネによる福音書20章23節)

 

 ああっつ、いきなり聖書の言葉を出してしまいましたが、ひかないでね。

 復活したキリストが、弟子たちを世界中におくる時に言ったことばです。

 

 が、これって、12使徒、ペテロやヨハネたちが人間の罪を赦せるかのようにみえますね。

 人間をゆるすのは、神さましかいないと思いませんか?

 で、ここ数年解釈に悩んでいたのです。

 

 そしたら、昨日ひらめいたのです。

 これは、人間の世界限定のお話。

 人と人との間で、あやまちや、負い目をゆるせば、それらはすみやかに私たちの間から消え失せます。

 また、人と人とのつながりの中で、負い目や過ちを決してゆるさなければ、その罪のしこりはいつまでも残ります。

 

 実はこれ、赦し合うことの大切さを書いた文だったのでした!

 

これは、神にあって生まれ変わった人の生きるべき、新しい生き方であり、新しくなった人々がつくる集団で、いの一番に大切にされなければならないことを、人間に説いた文句なんですね。

 決して、罪をゆるす権威は誰がもっているか?などという愚かなことを書いたセリフではなかったのでした。

 

 これは、たがいの欲望によって、バラバラに孤立している人間を救うのは、ただひとつ、赦し合うことしかない、と言うキリストの人間理解から生まれた考えでしょう。

 人類の苦しみ、闇は、みんなキリストが十字架で持って行ってくれたので、人類は、もう、愛し合うしかないのではないでしょうか。