ゆるしあいへの言葉。
じゃん!
友人のやっているマレーシア料理のお店に行ってきました。
今日の夕ご飯は、ペナン風焼ききしめんと、タピオカいりテータレック(マレーシア風ミルクティー)です。
ちなみに店主によると、タピオカはマレーシア産だそうです。
料理もさることながら、今日の用は、聖書の勉強でした。
店長さんはプロテスタント(メソディスト)のクリスチャン。
いつもラストオーダーすむ頃に行って、店がひけたあと話し込むのですが、今日は10時まで待てませんでした。
おおきな問題が解決したのです!
「だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。
誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ああっつ、いきなり聖書の言葉を出してしまいましたが、ひかないでね。
復活したキリストが、弟子たちを世界中におくる時に言ったことばです。
が、これって、12使徒、ペテロやヨハネたちが人間の罪を赦せるかのようにみえますね。
人間をゆるすのは、神さましかいないと思いませんか?
で、ここ数年解釈に悩んでいたのです。
そしたら、昨日ひらめいたのです。
これは、人間の世界限定のお話。
人と人との間で、あやまちや、負い目をゆるせば、それらはすみやかに私たちの間から消え失せます。
また、人と人とのつながりの中で、負い目や過ちを決してゆるさなければ、その罪のしこりはいつまでも残ります。
実はこれ、赦し合うことの大切さを書いた文だったのでした!
これは、神にあって生まれ変わった人の生きるべき、新しい生き方であり、新しくなった人々がつくる集団で、いの一番に大切にされなければならないことを、人間に説いた文句なんですね。
決して、罪をゆるす権威は誰がもっているか?などという愚かなことを書いたセリフではなかったのでした。
これは、たがいの欲望によって、バラバラに孤立している人間を救うのは、ただひとつ、赦し合うことしかない、と言うキリストの人間理解から生まれた考えでしょう。
人類の苦しみ、闇は、みんなキリストが十字架で持って行ってくれたので、人類は、もう、愛し合うしかないのではないでしょうか。